東京目黒区のキリスト教の幼稚園が園舎を改築することになった。この4月から、近くのお寺の仮園舎に転居しているという。
仏教とキリスト教が同居することになった訳だ。「仏教だのキリスト教だのと堅い事を言わず、困ったときはお互いさま」という双方の合意があったそうだ。
    (2004.6.5毎日新聞朝刊 オバさんの逆襲)
 私がカトリックの小学校に勤めていた時、学校でキリスト教のお祈りを教えてもらった1年生の子どもたちが、家に帰って、さっそく、仏壇の前に正座し、「父と子と精霊の御名によりて、アーメン」と唱え、可愛い手で十字を切っていたという話を、お父さんやお母さん達から聞いた事がある。

 可愛いと思う。敬虔な心を育むという点では結構な事ではないかと思う。

 考えてみれば、ほとんどの日本人は、クリスマスを楽しみ、お正月には神社に参拝し、先祖を崇拝し、お寺参りをしながら何の違和感も感じない。おまけに、キツネやへび、土着の神さんまで有難く拝んでいる。
日本人は昔から八百万(やおよろず)の神を拝んできたのだから、今さら目くじらを立てる事もあるまい。

 宗教に関して一見無節操とも思える、こういう「おおらかさ」が私は大好きである。


 宗教的には、こんなに寛容な日本人が別の面では豹変する。
政府の方針に従わない人たちを「非国民」という代議士がいたり、「外国人が増えたから治安が悪くなった」と言う知事がいたり、どうも、肌の色や国籍、思想・信条などについては鷹揚といかないようだ。
みんなが同じように考え行動する、画一性を求め、違った考えや行動する者を「変わり者」といって、排除しようとする日本人の昔からの悪い性癖が相変わらず幅をきかしているように思う。


 みんなとは少し違った発想をしたり、枠からはみ出しそうになる私は、「ちょっと変わっている」とよく言われた事がある。それで、「汝の道を行け、人をして語るにまかせよ。」などと開き直っていた。
そんな風で、若いときの私は気難しく融通のきかない性格で、ずいぶん多くの人に嫌な思いをさせたと思う。歳を重ね幾らか角がとれてきたのか、今は「おおらかさ」がいいなあと思うようになってきた。
 
 画一的な言動を求める典型が、式典での国歌斉唱である。全員、直立不動で起立して「君が代」を大きな声で歌うことを強要する。
「馬を川岸まで連れて行くことは出来ても、無理に水を飲ます事は出来ない。」 という諺がある。表面的には強制できても、心の中まで強引に変えることは出来ない。
私が校長だったら、「まあ、君には君なりの考えも有るだろう。ただ、立っている者・坐っている者バラバラだったら気まずいから、一応立つだけ立ったらどうか?みんな立っていたら歌おうが歌うまいが分かりゃしない。」といい加減な指導をしそうな気がする。


 以前、教員をしていた時、年末の募金を止揚学園(福井達雨氏が能登川町に設立した知的障害を持つ人たちの施設)に送ったところ、こんな礼状を頂き今も大切にしている。
 「 心温かいお祈りをいただきありがとうございます。
           …略…
 止揚学園では、冬になると、よく鍋物をします。グッグッ煮える鍋の中をのぞいている皆の顔もピンク色になってきます。先日、おでんがグッグッ煮えている鍋を囲み、みんなで食事をしていましたら、かをるさんが「だいこん たまご ちくわ こんにゃく みんな おいしい おいしい」とうれしそうに言いました。
 いろんな材料から出る、それぞれのおいしい味のまざり合うおでんをいただきながら、みんなが仲良く、共に生きる社会はあたたかいなあと、心がほのぼのといたしました。
このような歩みをいつまでも大切にしたいです。
     …略…        止揚学園 福井光子 」


 「 すずと 小鳥と それからわたし、
   みんなちがって、みんないい」
という金子みすずの詩も大好きです。

  いろいろな違いがあっても、あたたかく包み込み、お互いを尊重し合い、心を通わせ合う、「おおらかさ」が私は大好きです。
 宗教に関してあれだけ寛容な日本人なのだから、画一的な価値観にとらわれないで、多面的にものを見る事も出来ると思う。そうすれば、ゆとりが生まれ、世の中、もっとおおらかで楽しくなりそうに思うのだけれど…。
       


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