母は1冊のノートを残してくれました。
晩年、ほとんど寝たきりの生活が7年続いたので、「退屈しのぎに昔のことを思い出して書いてみたら?」とノートとボールペンを渡したら、断片的ながら、いつの間にか10ページほど書いてくれていました。
それをもとに、母の生涯の概略をたどりたいと思います。

 明治43年生まれの母は、昭和8年25歳の時に、筋向かいの農家の長男である父と結婚しました。いとこ夫婦でした。
 2年後に長女(私の姉)が生まれました。
その頃は、姑の他に父の弟4人がいて、1町3反(129アール)の田畑があり、わりあい裕福な農家でした。

 ひとが羨(うらや)む程の気楽な暮らしが、翌年、暗転し、不幸が続きます。
昭和11年、父の一番下の弟が12歳で病死。
昭和13年、姑死亡。
昭和15年、3月と12月に父の2人の弟が病死。
4人とも肺結核だったので、村の人達は「あそこの家に行ったら病気がうつる」と言って、だれ一人として来てくれなかったそうです。
よい薬もなく、当時の結核は今の癌以上に死の病でした。空気のよいところに転地療養するか、栄養を摂ってじっと養生するより方法がありませんでした。
病人は、寒い冬の日にスイカを食べたいと言ったり、いろいろ無理難題を言って、ずいぶん父を苦しめたそうです。父は、思いあまって、野井戸に飛び込んで自殺しようと夜中に何度もあぜ道を行き来したそうです。その度に子ども達の声が耳に聞こえどうしても死ねなかったと母に話したそうです。
一人では大きな百姓も出来ず、もの要りもあって、農地は2反ほど残して売り払い、父は工場に働きに出ました。

 その間の、昭和14年に、長男の私が生まれました。
母の実母だけは毎日来てくれて、病人の世話や子どもの世話をよくしてくれたそうで、母はずいぶん勇気づけられ、助けられたと話していました。
幸い心配された家族への感染もなく、昭和17年に私の妹が生まれ、平穏な日々が戻りました。
 ところが、昭和20年5月、自転車で出勤途中の父が、阪堺線の路面電車とバスに挟まれ、電車の側に倒れ轢かれて亡くなりました。
父が38歳、母が36歳でした。
姉が小学校4年生、私が1年、妹3歳、生まれて1ヶ月の妹が残されました。

 悲しみにひたる余裕はなく、一番下の妹を泣く泣く親戚に養女に出し、家計を支えるため、戦後の混乱期衣類の行商を始めました。
朝暗いうちに大きな風呂敷包みを背負い、夜暗くなってから足を棒にして帰ってくる毎日でした。農家の玄関に立って、声をかけるのが恥ずかしく本当に辛かったと話していました。
だまされて品物を持ち逃げされ、大きな借金を背負わされて嫌気が差し衣類の行商をやめた後、織物工場で働きました。
 新聞代を払えないほどお金に困った時期もあり、数々の気苦労もあって、とても書ききれないほどの苦労の多い一生でした。

 70代半ば、脳出血で半身不随になり、畳の上で転んで大腿骨を骨折し、寝たきりに近い生活が続きました。それでも生活の苦労から解放され、6人のひ孫にも慕われて、家族の温もりの中での平穏な余生だったと思います。85歳の2月、二度目の脳出血の発作で、一瞬の中に彼岸へ旅立ってしまいました。

 私が、壁にぶつかったり落ち込んで、いっそ死んでしまいたい思う度に、母は、「人生に袋小路はない」「不思議の世渡り、辛抱していたら、そのうち、きっと道が開ける」と言うのが常でした。確かにその通りで、不思議といつの間にか乗り越えていました。
それは、苦労を重ね、雑草のように強く生きた85年の生涯から母が会得した信念のようなものだったのかもわかりません。

 2003年の正月を順風満帆で迎える人もいるでしょうが、このご時世、辛く暗い気持ちで迎える人もいると思います。どうか、「人生に袋小路なし」「不思議の世渡り」と開き直って強く生き抜いてくださることを心から願っています…。


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