ひと昔前、タレントの水ノ江滝子さんが どこかのホールで、「生前葬」を実際にやって、かなり話題になったことがあった。生きている本人が棺(ひつぎ)に入り、友人・知人が参列して、弔辞を述べ、焼香をして、本当の告別式のようにする…。 変わったこと大好き人間の私としては、大いに興味をそそられた。しかし、考えてみると、いろいろ事前準備が必要で面倒だし、多くの人の世話にもなり迷惑かけることになる。それならば、告別式に録音しておいた死んだ本人の挨拶を流すとか、本人直筆のご会葬御礼の文書を配るなんて面白いかも…と考えた。 まだまだ10年も20年も世にはばかると思っているから、気楽なことを考えて楽しんでいられるのだろうと思う。 けれども、なんと、世の中には同じような事を考え実行する人がいるもので、最近の新聞の「みんなの広場」にこんな投書が載っていた。 「亡き友自筆の会葬礼状が届いた」 「…告別式から帰ってみると、天国へ旅立ったはずの親友からの、手書きの封書が届いているではないか。不思議に思って開けてみると、まぎれもなく彼が書いた会葬礼状であった。 『親愛なる友よ、今日は会葬ありがとう。君との思い出は天国へ持って行きます。…最後に、いずれまた会えると思うが、僕としては再会の日が遅からんことを祈っている。サヨーナラ』 驚いて奥さんに電話すると、『俺が死んだら出しといてくれ』と、言い残していたものだという。」 (2002.7.31 毎日新聞朝刊 4面) さて、私の方はというと、お別れの言葉を作るなら、いっそのこと、 「つゆとをち つゆときへにし わかみかな なにわの事も ゆめの又ゆめ」 (豊臣秀吉) 「散りぬべき ときしりてこそ 世の中の 花は花なれ ひとは人なれ」 (細川ガラシャ) なんて辞世の歌できめたら格好いいなあ、と思っていた。 |
最初に浮かんだ「辞世の歌」は、 「恥多き この世に 未練はないけれど 今のすぐでは こころ残りも」 ふり返ってみると、世間知らずで身勝手な私は、ずいぶん多くの人に嫌な思いをさせたり迷惑をかけてきたように思う。あの時はゴメンな、と一言謝っておきたいし、いろいろ世話になった人たちに本当に有り難うございました、とお礼を言っておきたい。それに、後のこともよろしくとお願いもしておきたい。 思い出しても恥ずかしい事だらけのこの世に未練はないのは事実だけれど、そんなこんなで今しばらくの猶予が欲しい、これはまあ率直な気持ちなので、すっと浮かんできた。 しかし、なんだか後ろ向きで、ちょっと寂しい気もする…。 次に浮かんだのは、 「我が道を 歩めし喜び 満ちていて いまわの時も こころ和やか」 小学校の先生になるのは子どもの頃からの夢だった。6歳の時に父親を亡くし、奨学資金を受けて高校・大学に進んだのに、60年安保のころの学生運動に熱中し教員への道は閉ざされたかのように思われた。けれど、新設間もないカトリックの私立小学校が採用してくれて、偏屈で扱いにくい私を、広い心で温かく見守ってくださった。 シスター達にも、仲間の先生達にも、保護者や子ども達にも、未熟な教師でずいぶん迷惑をかけたと思う。皆さんの寛容さ、やさしさ、温かさに心から感謝している。お陰で38年間の教員生活を全うすることが出来た。波瀾万丈だったけれど、いい人たちに恵まれ、それなりに幸せな人生だったと思う。 しかし、「いまわの時もこころ和やか」といけるだろうか? 7本も8本も体にチューブをつながれて、集中治療室で苦痛にうめいていないだろうか?先の事は「神のみぞ知る」で何ともわからない…。「和やか」どころではないかもわからない。 とかく、「辞世の歌」は難しい…。 |
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